国宝松本城

弘法山古墳という東日本最古の古墳がある松本は有史以来、重要な地であったようです。

平安時代の始めには国府が上田からこの地に移転をしています。やがて南北朝期には甲斐源氏の一族、小笠原貞宗が国司兼守護職としてこの地を治めました。

その小笠原氏の家臣である島立氏によって深志城が建設されます。

しかし天文年間になると、武田信玄の信濃侵攻によって小笠原長時は信濃追放になるも、天正十年、本能寺の変で織田信長が撃たれると、長時の子・貞慶が旧領回復を果たします。そして松本城と改名しました。

豊臣秀吉の時代になると、石川数正が入城して現在の天守の造営と共に城下町の建設も行われました。
その子康長の代に現在の天守閣が建設されました。(文禄2~3年)

徳川時代に入り、今度は小笠原貞慶の子の秀政が入城してその子、忠真と続きますが、城主が変わってその後、戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏、戸田氏と交代を繰り返して幕末を迎えました。

太鼓門
文禄4年造営時の合図、登城の合図などを太鼓で知らせました。(平成11年復元)
黒門一の門(櫓門)
昭和35年復元
櫓門の裏側。
黒門二の門
ここから本丸に入ります。
この門は平成2年の復元です。
二の門の裏側。
本丸内部からの天守の眺めです。
手前に本丸御殿がありましたが、享保12年に焼失しました。
手前側の石垣が新しいのは明治の修理でしょうか?
天守(奥)と、乾小天守(手前)
天守1階は沢山の柱があります。
木材はツガ、ヒノキ、マツが使用されています。食料、武器、弾薬の倉庫として利用されていました。
周りには武者走り。
糸車のように、内側に向かって反っているのが分かります。
石落としと鉄砲狭間
二階は窓が多く明るいイメージです。
立格子窓(武者窓)
武者窓の美しい手斧で削った痕です。
ここは多くの武士たちがつめる武者溜まりでした。
磨きぬかれた床の光沢。
三階
四階はいざという時の城主の居場所(御座所)。
天井が高く四方から明かりが入ります。柱は全てヒノキでカンナが掛けられています。鴨居の上は小壁の漆喰仕上げです。
五階は重臣たちの作戦会議を開く場となるようです。
外側は千鳥破風で格子窓になっています。
窓から懸魚が望めました。
こちらは唐破風ですね。
乾小天守との渡櫓
乾小天守が望めました。
乾小天守の四階部分
瓦が近くで拝めます。
鯱真木
元の設計では欄干になる筈だった回廊
天井の井桁梁
天守の最上部には…
松本城の守神二十六夜神
天守の大切な役目、望楼。
眼下には埋橋が。
ここから寛永の平和な世になってから増築された辰巳付櫓へ。
花頭窓
ここから月見櫓です。
その月見櫓の天井を通す長い梁。
外側は朱塗りの回り縁になっています。
天守を間近で見ることができます。
月見の宴の時には三方を吹き抜けにできます。
千鳥破風と周りの瓦。

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