足利学校は我が国における最も古い学校と言われていますが、その発祥についてははっきりとしていないらしいです。。
学校の直ぐ隣に足利氏の居館跡である鑁阿寺があるのですが、こことは由縁が無いとのことなのです。
単に足利にあるから足利学校ということなのか…
上杉憲実が足利の領主となってから、足利学校は整備されていきます。
この人は文武の道に優れ、足利政権と地方の勢力争いに巻き込まれていきますが、その中で跡取りを失い、諸国行脚の晩年をおくり、長門の国で57で亡くなっています。
足利学校の他にも金沢文庫も整備していますので、世が世なら学者として一生を送ったことでしょう。
第7代庠主、九華が北条氏政の保護を受けて学生数など最盛期を迎えます。
かのフランシスコ・ザビエルをして日本一の学校と言わしめるまでに至りました。
その後豊臣時代には北条氏という保護者を失い、秀次によって書籍が持ち去られる事態になり、学問好きの徳川家康に保護を求めました。
徳川時代には所領の保護もあって、足利地域の郷学として再び隆盛を極めますが、学問の流派が朱子学が中心になった為にその後廃れていってしまいます。
足利学校が藩校になるのはなんと明治になってからです。
勿論直ぐに廃藩置県によって、又保護者を失って、明治5年には廃校、敷地の半分は新たに学校が建設されます。
孔子廟は現在、保存修復工事中で拝観できませんでした。
図書館と共に足利学校で残っていた貴重な建物になります。
榑葺屋根がここだけ残っていました。
この鴨居の立派なことといったらありません。
しばしこの濡縁でゆったりとさせて頂きました。
孔子坐像前辺りからのお庭の眺め。
外から見てもあの鴨居にはため息がでてしまいますね。
足利学校の建物のなかで、孔子廟とならんで残っていた建物になります。
大正時代の建築になりますが、貴重な建物ですね。
旧足利藩士田崎草雲の活動により、書籍の保護と残された建物の維持がされ、足利学校は地元の管理となりました。
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